2018年12月15日夜9時 始まり、始まりー。
むかし、むかし、秋田県男鹿市の小さな漁村戸賀村に、のちに5人兄弟になる、その長男として生まれました。浅野裕、昭和23年5月2日。
父親に似て、頭のいい子で、おりこうさんで、いいとこの坊ちゃんーーーとずーっと後、大学を出るまで、そう思っていました。
ある日、ふと気が付きました。10年の間に5人の子供がいて、いなか農協に勤める父親に、「いいとこの坊ちゃん」であるはずがないってね。
父親は苦労していても、いい意味で かっこつけていたんだろうなー。
なんで今まで、気が付かなかったんだろう。大学になんか 行かなくてよかったのに。
あろうことか、高校入試に失敗して、秋田市に下宿して予備校通い。無駄な金をかけさせてしまったね。
次の年はもちろん合格 「県立秋田南高校」。
入学が決まって、テレビで「小林旭」が岩場に座って、「赤ーい夕日にさそーわれてーー」とギターを奏でているのを見て、即、父にねだって、ギターを買ってもらいました。たしか4500円。それを持参で新しい下宿での生活が始まりでした。
何年の時だったかなー?英語の先生が「浅野は入試で英語が ただ一人満点だったんだぞ。どんな生徒かなー?て、期待していたんだぞ。それがーー。」とみんなの前で言っていたっけ。でも、うれしかったよ。
大学は(というより 大学まで行かせてくれなくてもよかったんじゃないの、天国のお父さん。) 東北学院大学。初登校の日に、正門を入ると、机を一個ずつ置いて、部活の勧誘をしていた。みんなが大きな声で新入生に声をかけていた、その中で、ひときわ目立った秋田弁。その人は、母校南高校の1年先輩だった。そして、合気道部。ちょうど直前に父が買ってきたレコードが「花の合気道」というレコードで、十和田なんとかさんというきれいな女性の歌手だった。迷わず、合気道部にお世話になることにした。
新入生歓迎コンパの時、自己紹介で「趣味はギターです。」と言ったら、先輩たちが、「なに?ジタ―だって?」って大はしゃぎしていたよ。これも、我が先輩のなまりのせいだ。渡辺先輩、卒業してから警察官になりました。もう、定年になったんだろうけど、警察官ってズーズー弁でも大丈夫だったのかなー。
4年間、本当に勉強しなかったなー。何の思い出もない。でも、今の自分があるのは、この、合気道部に籍をおいたおかげだって思えるんです。つまり、遠回りに言えば大学に入ってよかった、ということです。もっと遠回りに言えば、父にお金を出してもらってよかった、ということです。全額、今の私の中に生きています。そう、思いたい。
先輩たちに身体と精神を鍛えてもらって、さー、社会人です。
父の親戚が社長をしていた 「和光薬品」という医薬品卸に就職です。ここでも、父の意見が反映しています。寮生活です。テレビを見ていて、時代物で、男性が屋敷の外から、中にいる女性が弾く箏の演奏を聴きながら、彼女に思いを寄せていました。その曲がとても素敵で、それを弾こうと思って、会社から20万円を借りて、即、筝を買いました。すぐ、先生について筝を習い始めて、弾けるようになりましたよ。曲名は「乱れ」。
そうこうしているうちに、父が出入りしていたお店の店員さんを、そこの社長さんと父で紹介してくれました。私が、店に行き、彼女を連れだして、初デイト。すぐ大好きになって結婚です。これも、父がらみ。
アパートで結婚生活でした。秋田本社、能代出張所、と転勤しながらのアパート生活。楽しく暮らしましたとさ。秋田で長女ができ、能代で長男が生まれたんだけど、この子は6か月で死んじゃった。いや、ここに触れないでおこうと思ったんだけど、間違いなく私たちの子供なんだから、彼の存在を忘れてはいけないと思ってーー。
妻の実家は北秋田市、そこにいる弟の体調がよくないと言うことで、会社に願って大館支店勤務にしてもらった。実家に入って、そこから通勤は30分弱。やがて、弟が死んじゃった。この後に、次男坊たっけが生まれたんじゃないのかなー。
弟が参加していた若い人たちの「桐生産組合」があって、弟の代わりに私がメンバーに入った次第。剪定した枝がもったいなくて、持ち帰って、何気なく男用の下駄を作ってメンバーに見せたら、好評で持ち上げてくれたので、いい気分でいたところに、やがて、桐を育てるために市から借りていた山の期限が満了になるころには、当初描いていた桐の価格が大きく下がっていたんだね。あまりに安かったので、桐がかわいそうになって、私がメンバーにお願いして引き取らせてもらったという次第なんですよ。
グループ解散後、これからは、私の試行錯誤が始まったんです。「作りたいのがあって、材料をどうやって確保するか」ではなく、「どうやって、この材料を使い切るか。」の思いが絶えず付きまといます。お蔭様で自由な発想が次々に生まれて、今に至ります。
ここの家には妻の母がいて、そこに、申し訳なかったけど、私の両親を引き取って、一緒に暮らし始めました。父は寝たっきりになって、まだ、私が勤務していた当時で、妻が大きな父をベッドの上で動かして、おしめを取り換えてくれていたんですよ。やがて父が亡くなり、母(アイばあさん)のボケがどんどん進んで、今に至ります。ここの家は、大きな家で、畑も田んぼも林もいっぱいあるんです。父がなくなる前後だったかなー、覚悟を決めて、私はここの人になりました。姓が「岩谷」になりました。

そんなわけで現在のここの家族は 妻の母、私の母、私と妻、息子たっけ。の5人です。娘の裕加子は東京で一人暮らしで頑張っています。
そうそう、愛犬ももが私たちの中心にいて、わがままし放題で暮らしています。
以上、自己紹介でした。

そして、2018年12月29日に、愛する母は世を去りました。93歳かな。
2019年10月現在、愛犬ももは2度の死にそうになったのを、妻とたっけが懸命の世話をしてくれて今も、元気にしています。母が暮らした、大きな部屋にね。
そして、令和2年9月17日、ももが亡くなりました。15年以上の年月私たちと付き合ってくれてありがとう。前の飼い主のたかうさんに、でんわして、お礼しましたよ。覚えてくれていました。私は今も覚えているんですよ、もらいに行ったとき、ももが私に飛び上がって来たことを。長い間ありがとう。


                                            
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